青梅橋の強盗 狐塚 里正日誌第十巻p77~78

青梅橋の強盗 狐塚 里正日誌第十巻p77~78

村々目印鉢巻・裡・竹鑓各得手道具携陣押二凝し行装花々敷事二被見請、誠二勇々敷事二候、小川村二而村々役人・人足は御暇二相成、農兵井世話役名主杢左衛門付添小川新田中小休、小金井橋小休、田無(朱書)村平左衛門「俗二全」小休、田無村田丸屋冨右衛門泊り、小雨夜大雨一十五日小雨、朝御出役網野雅之助殿御暇農兵一同帰村右為御取締御廻村中当組合内中飯小休其外臨時諸掛り〆金五両一分一朱ト拾弐貫五百九十五文相掛り当組合村々高割出金


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辰閏四月十八日盗賊打殺之儀ニ付芋久保村より届書
(欄外朱書)
「強盗斬首」
 乍恐以書付御訴奉申上候

武州多摩郡芋久保村役人惣代名主五郎左衛門奉申上候、
近頃物騒ニ付兼而御触達之趣も有之、既ニ御出役様御
廻村も被為在候程之義ニ而、当十六日朝五ッ時頃村方
農兵其外人足引連組合場所田無村御出役様御旅宿江罷
越候途中、村内家少々久保原ニ而強盗弐人、内壱人は
廿四五才壱人は廿才位ニ相見へ候、先立候農兵 並びに人足
共懐中物其外可相渡旨申之、両人共抜連相掛り候二付
驚相支罷在候内、追々駈付盗賊両人共打倒、抜刃は大
勢ニ而踏折召連御訴可申上候と存候内両人共相果申候
間、名住所等穿鑿およひ候得共更ニ手掛り相知不申、
其段御出役様江御訴可申上と御旅宿先承り候処御帰府
之趣ニ付、死骸並びに踏折匁共其儘仮埋ニ仕置、不取敢此
段御訴奉申上候、以上
          武州多摩郡芋久保村
           役人惣代名主

 慶応四辰年閏四月十八日 (朱書)「高杉」五郎左衛門
(欄外朱書)
「賊二人ハ斬首致シ候得共御代官ノ差図モ受ケサレハ
如何ヤト存シ、賊相果タル旨二届書ヲ草案シテ差出
サシム」
  江川太郎左衛門様
         御役所

55
 慶応 4年閏四月十八日 盗賊打殺之儀二付芋久保村より届書
(欄外朱書)
「強盗斬首」
 乍恐以書付御訴奉申上候

武州多摩郡芋久保村役人惣代の名主五郎左衛門が申上ます
近頃、物騒につき、兼ねて御触達もあり、すでに御出役様御
廻村もなされているほどのことであります。当十六日朝、五ッ時頃 村方
農兵其外人足を引連れ、組合場所の田無村御出役様御旅宿へ行く
途中、村内家少々久保原にて強盗弐人、内壱人は
廿四五才、壱人は廿才位に見へました。先に申し上げた農兵並びに人足
共に、懐中物その外を相渡すべきと申し、両人共抜刀して掛りそうであったため
驚いて相支罷在候内、追々、村人が駈付、盗賊両人共打倒、抜刃は大
勢にて踏折 召連 御訴申上べく候と存候 うちに両人共に果てましたので、
名住所等を穿鑿をしましたが、更に手掛りはわかりません、
そのことを御出役様へ御訴申上げるべく御旅宿先へ行きましたが、御帰府
されておられましたので、死骸並びに踏折刀共を其儘、仮埋に致しまして、とりあえず此
段御訴奉り申上候、以上
          武州多摩郡芋久保村
           役人惣代名主

 慶応四辰年閏四月十八日 (朱書)「高杉」五郎左衛門
(欄外朱書)
「賊二人ハ斬首致シ候得共御代官ノ差図モ受ケサレハ
如何ヤト存シ、賊相果タル旨二届書ヲ草案シテ差出
サシム」
  江川太郎左衛門様
         御役所
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 辰閏四月十六日賊徒弐人打殺候始末事実

             (朱書)「野口」「石井」
一十六日晴、昼前四ッ時頃芋久保村弥五兵衛・儀兵衛
両人小川村へ所用罷出候途中、青梅橋より小川村取付
 「青梅街道」
間野中往来ニ而強賊出逢、壱人は大小・袴着用壱人
は脇差帯候、両人行逢彼より金子差出可申旨強勢申出、
時宜ニ寄候ハバ可切殺様体ニ付、無余儀有合之所持
金拾両余被奪取候間、跡江戻り青梅橋茶店見廻し候
処前書之両人休居候ニ付、右始末内々茶屋之主しへ
申聞置、直様居村へ立帰り夫々江告為知候ニ付、早
鐘・竹洞吹立候ニ付隣村最寄村々人数押出し、青梅
橋ニ而承り候処往還西ノ方へ出向候旨ニ付、大勢之
   (追)    (ママ)
もの共逢欠行三ッ木村村之内字残堀裏ニ而追継、両
人江掛合候処申訳無之旨申出候間、被奪取候金子取
戻し大小・脇差共取上ケ引戻し、芋久保村・蔵敷村
  「青梅街道(字ニ新街道狐塚ト云)」
と之地堺江引居打首ニ可致問其覚悟可心得旨申聞候
   (非)
処、是悲なき次第二付可相任セ、乍併此上之願ニは
酒為給呉候様申出候間、青梅橋より酒壱升取寄為呑可
申と差出候処、両人ニ而呑終り袴着用之壱人唱歌相
     (悟)
謡、最早覚語宜敷旨相答候ニ付彼帯し候刀ニ而砂川
村材右衛門首打落し、脇差而已帯し候壱人は芋久保
「高杉」
村銀蔵首切、上着剥取其場江掘埋候、尤砂川・小川・
中藤・芋久保・蔵敷五ヶ村之人数凡五六百人も相集
り周囲取巻居目覚敷事共也、跡取片付右賊之衣類・
帯劔は砂川・中藤両村之非人二為取引払、夕暮二相
成申候
右之始末二候得共御支配御役所江は引違ひ芋久保役人
より訴出ル
 右は五ヶ村役人立会決評之上取計候也

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 慶応 4年(1868)四月十六日賊徒弐人打殺候始末事実

             (朱書)「野口」「石井」
一、十六日晴、昼前四ッ時頃芋久保村弥五兵衛・儀兵衛
両人小川村へ所用に行きました途中、青梅橋より小川村取付
 「青梅街道」
間野中往来ニて、強賊に出逢いました。壱人は大小・袴着用、壱人
は脇差を帯ていました。両人に行逢うと、金子を差出せと強く申しました。
ことによったら、斬り殺されるようでありましたので、余儀なく、所持
金拾両余を奪取されました。跡へ戻り、青梅橋茶店を見廻すと
前書之両人が休んでいましたので、右の始末を内々に茶屋の主しへ
申し聞かせ、すぐ様、居村へ立帰り、それぞれへ知らせました。早
鐘・竹洞を吹立ましたので、隣村、最寄の村々から人数押出し、青梅
橋にて聞きましたところ、往還西ノ方へ出向したとのことで、大勢之
  
もの共が追いかけて、三ッ木村村之内字残堀裏で追いつき、両
人江へ掛かり合ましたところ、申訳ないと申し出て、奪い取りました金子を取
戻し大小・脇差共取上ケ引戻し、芋久保村・蔵敷村
  「青梅街道(字ニ新街道狐塚ト云)」
と之地堺へ引居き打首にするからと、覚悟をするように申聞ますと、
   (非)
是悲なき次第につき、相任セるべく、併せて、此上之願おして
酒をくれるようにと申しましたので、青梅橋より酒壱升を取寄せ、呑みなさいと差し出したところ、両人ニて呑終り袴着用の方が謡をうたい、
最早、覚語よろしいと答えましたので、彼が帯し刀zで、砂川
村材右衛門が首打落し、脇差を帯た壱人は芋久保村の「高杉」
銀蔵首を切り、上着を剥ぎ取り、その場へ掘埋ました。尤砂川・小川・
中藤・芋久保・蔵敷五ヶ村之人数凡五六百人も相集
り周囲取巻居、目覚敷事です、跡の取片付、右賊之衣類・
帯劔は砂川・中藤両村之非人に取引払わせました。夕暮に相
成申候
右之始末に候得共、御支配御役所江は引違ひ芋久保役人
より訴出ル
 右は五ヶ村役人立会決評之上取計候也

◎指田日記では4月17日
 閏4月17日 青梅橋と小川の間にて、芋久保村の縞買い、追剥に出合い、此の日、此の辺の農兵の者仕度いたし出たる所なれば、追いかけ搦め捕りて、蔵敷前の神送り塚にて、砂川村と芋久保村の人、首を切り其処に埋む

⑫狐塚

 芋窪村と蔵敷村の境、それも本村からはるか南で村のはずれである。字名は新街道の中である。幕末に二人の強盗を打首にしてその場に埋めたという。慶応四年(一八六八)閏四月のことである。『里正日誌』によれば、芋窪村の農民二人が小川村へ出かける途中、ひとりは侍姿の二人の強盗に出会い拾両余りを奪われた。青梅橋の茶店に休んでいた両人を見届けて村方へ知らせ、近隣からの大勢の人びとと共にたまたま行き合った二人を取囲み右の次第となったのである。

 この事件は物騒を極めた当時、浮浪人取締りの布告が出たばかりという時代を背景としたものであった。

 明治二十年代に生れた人の話では、ダイエーの付近で武士の追剥が土地の女性をおびやかしたので男衆が集って斬ったと父親から聞いたという。そばの桜の根元によく花が供えてあったそうだ。同じ話題がこのように伝わっているのであろう。

 青梅橋付近は狐が出没するので通るのが怖かったと伝えられ、昭和のはじめまで狐の棲処があったようである。
(東大和市史資料編9p71)


 狐塚

 東大和市に、狐塚(きつねづか)がありました。調べてみると、なんと、多摩都市モノレール・桜街道駅のところです。ここで、今では信じられない騒動が起こりました。明治維新寸前の慶応 4年(1868)4月16日のことです。少し長くなりますが、お付き合い下さい。
             
 当日は晴れ、午前10時頃です。芋久保村の弥五兵衛と儀兵衛が田無村へと出かけました。青梅橋を渡って小川村へ入ります。人家はなく、野中の往来でした。そこで、二人の男に出会いました。ひとりは大小・袴を着用、もうひとりは脇差を帯びています。呼び止められて、いきなり
 「金子を差出せ」
 ことによったら、斬り殺されるかも知れない気配です。仕方なく、所持金10両余を差し出しました。
 しかし、大金です。このままでは済まされません。芋窪村の二人は様子を見ながら、青梅橋の茶店まで戻ります。

 店の中を見ると、さっきの二人が休んでいます。弥五兵衛は、これこれしかじかと、いきさつを茶屋の主へ話し、すぐさま、芋窪村へとって返して、身内や村役に知らせました。

 芋窪村の村人達は、直ちに、早鐘・竹洞を吹き立てました。それを聞いた隣村、最寄の村々から多くの村人達が青梅橋の茶店へと押出しました
 店の主に聞くと、
 「往還 西ノ方へで向いた」
 とのことです。

 大勢のもの共はよしとばかり、追いかけます。三ッ木村の残堀裏で追いつきました。
 両人へ掛け合ったところ、申し訳ないとのことで、奪い取られた金子を取りもどしました。そして、大小・脇差を共に取上げて、芋窪村と蔵敷村の地境である、狐塚へ引き据えたのです。

 「打首にする、覚悟をせい」
 と申し聞かせると   
 「是悲なき次第につき、あい任せる。ついては、酒を頂戴したい」
 と申します。そこで、青梅橋から酒1升を取寄せ、差し出しました。両人で、呑み終ると、袴着用の方が謡をうたい、
 「最早、覚語よろしい」
 と云いましたので、彼が差していた刀で、砂川村の材右衛門が首を打落し、脇差を帯びた壱人は芋久保村の銀蔵が首を切りました。そして、上着を剥ぎ取り、その場へ埋めました。

 周囲を砂川・小川・中藤・芋窪・蔵敷の5ヶ村、人数、およそ5~6百人もが相い集り、取り巻いて居りました。
 [目覚敷い事]です。

 芋窪村の名主が代官の江川太郎左衛門に報告した文書を意訳しました。原文の趣旨を逸しないようにしたため、読みにくいところはお許し下さい。何気なく利用していた駅の前に立って、この出来事を思うと、居たたまれなくなります。慶応4年という特殊な時代の特殊な光景なのでしょうが、時代の重さを感じます。

 この文書、次のような結びになっています。
 
 「右の始末に候えども、御支配、御役所へは引違ひ、芋久保役人より訴出る
  右は五ヶ村役人立会 決評の上 取り計い候也」
  一部始終を書き上げて、砂川・小川・中藤・芋窪・蔵敷村の村役人が揃って合意した上で、提出したようです。その背景に何かが眠っているようです。次回に続けます。(出所 明治元年里正日誌 三冊上)